「縛り係」濡木痴夢男の軌跡を追ってみましょう。

 

 

 

 

現在の日本の(あるいは世界的な、と言ってもよいのかもしれませんが)緊縛ブームはどのように形成されてきたのでしょうか?また、緊縛技術の進化に、どのような先達が大きな影響を与えてきたのでしょうか?SMの歴史について少し勉強しておくのもよいかもしれません。

現在の緊縛文化のルーツをどこまでさかのぼれるかについては、いろいろな意見があるかと思いますが、1つは、明治生まれの伊藤晴雨を起源とする考え。

新潮社『芸術新潮』1995年4月号の『特集 幻の責め絵師-伊藤晴雨』。濡木痴夢男も若い頃伊藤晴雨の芝居を観ています。

 

自ら女性を縛るのみならず、緊縛絵師としての活躍、緊縛写真集の発行、緊縛劇団の公演、緊縛映画の撮影と、今に続く多くの緊縛文化の各種表現法に、それぞれ一番最初に手を出した伊藤晴雨は、まさに「緊縛の父」。これに異論を唱える人は少ないのではと思います。

もちろん伊藤晴雨に影響を与えたのは、歌舞伎や文楽での縛りのシーンや、それを題材にした浮世絵などだったので、緊縛文化の素地は、伊藤晴雨以前から日本文化の根底に流れていたのですが、なんといっても「私はヘンタイ」「縛りは楽しくてやめられない」「縛られた女性は美しい」と、高らかにカミングアウトしたのは伊藤晴雨が最初の人なのです。「緊縛の父」「ヘンタイの父」「SM大神様」なのです。

伊藤晴雨の活躍時期は大正から昭和の初期。ですのでかなり昔の人です。戦後にも活動はしていましたが、1961年に亡くなっています。

伊藤晴雨を尊敬してやまない、ヘンタイ後継者が戦後活躍しだします。上田青柿郎(せいしろう、と読みます)や須磨利之などが有名で、いずれも雑誌の編集者でもあります。

晩年の須磨利之(美濃村晃, 1920-1992)。須磨利之にスポットをあてた「縄炎 ~美濃村晃の世界」(シネマジック、1989)より。監督は雪村春樹

特に、須磨利之は「美濃村晃」「喜多玲子」などの変名を多く持ち、絵も描いたり、小説を書いたりと、伊藤晴雨と同じく、才能溢れるヘンタイさんでした。そして、これまた須磨利之を尊敬してやまない、伊藤晴雨から数えて3代目にあたるヘンタイジェネレーションが育ち始めます。1960年代ごろの昔の話です。

この第3世代の一人が、今日ご紹介する「濡木痴夢男」。『耳学問3:シンプル縄の奥深さ』などでも紹介した「三大縄神様」の一人です。

濡木痴夢男(1930-2013)、32才頃の写真。雑誌『裏窓』の編集長の時代。「日本緊縛写真史 1」より。

 

濡木痴夢男」。変わった名前ですが、本名は飯田豊一。伊藤晴雨や須磨利之と同じく、マルチな才能をもった粋人で、小説も書き、絵も描き、劇団を主宰したり、子供の頃は小歌舞伎の子役としても舞台に立っていたようです。

子供の頃から、芝居や絵画の緊縛シーンに性的な興奮を覚えていたということですが、当時は、実際に女性を縛るといったことは、普通の人は考えもしなかった頃です。濡木痴夢男が実際に縛りを始めるのが、1950年代の終わり頃。20代の後半で、須磨利之と知り合った後です。

それまでの濡木痴夢男はというと、まず雑誌のデザイナーとして社会人生活を始めます。そして、仕事の合間に、密かな趣味として、SM小説を、「奇譚クラブ」「裏窓」といった、SM聖書とも言えるヘンタイ雑誌に投稿していました。

「奇譚クラブ」が変態路線に大きく舵をとった号とされる1952年5・6月合併号。須磨利之が編集長をしていた。濡木痴夢男が最初に小説を投稿するのは1953年。

須磨利之が濡木痴夢男にバトンタッチするまで編集長をつとめていた「裏窓」1957年3月号。1965年まで続く。濡木痴夢男が最初に小説を投稿するのは1957年12月号。

この「奇譚クラブ」「裏窓」という「SM聖書」に、実は須磨利之が大きくからんでいます。

須磨利之、普通のエロ雑誌だった「奇譚クラブ」に、絵や小説を発表していましたが、やがて編集長になり、路線を大きく「ヘンタイ」ジャンルに変更します。この変態路線が成功し、「奇譚クラブ」は1947年の創刊から、1975年まで28年にもわたって発行された長寿雑誌となります。

ただし、須磨利之は、「奇譚クラブ」の編集長としては1年ほどしか関わっておらず、「奇譚クラブ」の成功に道筋をつけたあとは、しばらくして「裏窓」という、これまたヘンタイ雑誌の代表格となる月刊誌を創刊します。1956年ぐらいのこと。

濡木痴夢男は1957年に「裏窓」の存在を知ったようで、その12月号には早くも飯田豊吉という名前で小説を投稿しています。それに先立ち、1953年から奇譚クラブに、青山三枝吉や真木不二夫の名前で小説を書いています。基本的に濡木痴夢男は小説書くのが大好きなのです。

1957年には、濡木痴夢男は裏窓の編集室に訪れ須磨利之と対面し、意気投合。ふたりのヘンタイ遊びが始まったようです。やがて、濡木痴夢男はデザイン関係の会社も辞めて、「奇譚クラブ」や「裏窓」に書いた小説の原稿料だけで生活を始めます。

須磨利之は、次々と新しいことにチャレンジしていくタイプなのでしょう。自ら創刊した「裏窓」も、その編集長の座を濡木痴夢男に1961年に譲ります。この頃もまだ、濡木痴夢男の名前は誕生していません。裏窓編集長、「飯田豊一」です。この編集長になったあとに、濡木痴夢男は、小説のみならず、実際に女性を縛り始めます。

 

 

 濡木痴夢男による初期の緊縛。裏窓1962年5月号より。

 「裏窓」にはもちろん、緊縛写真が多く掲載されていますが、1961年以降の緊縛写真の多くは、濡木痴夢男の手によるものです。

上の写真を見てもわかるように、この頃の緊縛は、いたってシンプル。しかし、とても美しいです。伊藤晴雨から須磨利之と流れるロマンチックな緊縛の系譜を見て取ることができます。

 

裏窓時代は、数ある変名の中でも、藤見郁という名前で緊縛写真を発表しており、濡木痴夢男という名前はまだ誕生しません。

濡木痴夢男という名前が誕生するのが、1973年ですので、初めて女性を縛ったと思われる1961年から、10余年たってからになります。

この1961−1973の間の濡木痴夢男の活動を、ざっとみてみましょう。

まず、編集長をしていた「裏窓」ですが、1965年1月号で廃刊。すぐさま「サスペンスマガジン」として後継誌が濡木痴夢男の編集で創刊されます。どちらも久保書店からの発行で、濡木痴夢男も須磨利之も久保書店の社員だったわけです。しかし、1969年には、二人揃って久保書店を退社し、二人で「虻プロ」という出版会社を作り、「あぶめんと」という雑誌を発刊します。

編集には才能のあった二人ですが、出版業となるとなかなか難しいのか、この「あぶめんと」は1970年に6冊だしただけで休刊となります。

この1970年前後から、世の中が随分と変わってきます。それまでは、「異常者」「あたまの変な人」と思われていたSM愛好者が、次第に市民権を(少しではありますが)もつようになります。世の中全体が、カウンターカルチャーをヨシとする、混沌とした時代にはいっていきます。

それまでは「SM」という言葉すら定着していなかったのですが、1970年代前後から、「SMマガジン」「ポケットSM」など、雑誌のタイトルにSMという名前が使われるようになります。

その中でも記念碑的な存在なのが「SMセレクト」。

SMセレクト1970年11月号創刊号。須磨利之が大きく関わっている。 

その後のSM雑誌ブームの火付け役と位置づけられている雑誌です。

この雑誌の創刊には濡木痴夢男はからんでいませんが、須磨利之がアドバイザーのような感じで深く関わっており、小説、絵、緊縛などを発表しています。

1969年創刊の「SMセレクト」が、時代の流れにのって大成功。これは儲かると、「SMセレクト」を発行していた東京三世社の一派が別の会社に引き抜かれ、「SMファン」を1971年に創刊。さらに1972年には、やはり東京三世社の一派が須磨利之を引き連れて独立し、別会社を設立、「SMコレクター」を創刊するなど、SM雑誌戦国時代に入ります。

濡木痴夢男は、最初はこれらのSM雑誌に小説を寄稿するだけでしたが、須磨利之の抜けたあと、1973年の「SMセレクト」2月号から本格的に緊縛でも参加。この時に、「濡木痴夢男」という名前が誕生しています。

濡木痴夢男の名前での最初の緊縛と思われる作品。SMセレクト1973年2月号より。 

濡木痴夢男として「SMセレクト」に登場した時の自己紹介文のようなものがありますので、引用してみましょう。

 

「これだけは書かせてもらいたい。SM趣味を愛好する者の中には、本誌のような雑誌とはまったく関係のない沈黙実行派がかなり存在」

「そして私も過去二十数年間、その沈黙実行派グループの一員であった」

「私が自分の手で縛った女性の数は」「五〇〇人以下ではないだろう」

「私は本誌に引き抜かれた形になる」「私の所属していた某・サディストグループから離れることになった」

「マニアだけが堪能する『縛りプレイ』に、私はそろそろ飽きがきていたのだ」

 

多少の創作もあるでしょうが、それまで須磨利之らとわいわい楽しく作っていた「マニアのためのマニアによるマニア雑誌」から、商売としてのSM雑誌の緊縛担当者=「縛り係」としての関わりが始まる事に対する、好奇心、期待、そして懺悔の思いが伝わってきます。「マニアによるマニアのため」ではなく、「雑誌編集者の指示による、スケベ読者のための緊縛」をしなければならない時代が始まります。

とにもかくにも、1970年代に入り、世の中はSMブーム。団鬼六がTVに出演し、一般マスコミがSMを取り上げだしたのも1970年前後。

SM雑誌はどんどん創刊されるが、緊縛ができる人と言えば、濡木痴夢男か須磨利之、そして第二世代に属する辻村隆や上田青柿郎でしたが、あとのふたりは全盛期はすぎており、やはり第三世代の濡木痴夢男に仕事が集中します。

さらに困ったことに、SMコレクター=須磨利之、SMセレクト=濡木痴夢男、と分担していた仕事ですが、須磨利之が脳溢血で倒れたために、SMセレクトの分も濡木痴夢男に回される事態に。

1974年には、写真家杉浦則夫とのゴールデンコンビが誕生し、緊美研、SMビデオと続くのですが、長くなったので、今回はこれで終わりします。

続きは、次回のお楽しみで。

 

 

  

濡木痴夢男という名前が登場した1970年代はこんな時代。

 

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連載『SM美容術入門』