基本、みんな変態です。
1940年の生まれですので、一人目で紹介した濡木痴夢男よりは、10才若いことになります(上の写真は40代初めのの写真)。
今に通じる現代的な緊縛技法の確立は、ほぼ濡木痴夢男がやりつくした感もあるのですが、『SM美容術入門46 - 濡木痴夢男(2)』の最後で紹介した濡木痴夢男の言葉、
「ステージにおけるショーの場合は、何よりもライブの迫力、責められる女体が、ナマで見られるという刺激がある。AV系のSM映像が真実味を失っていく昨今に、ライブこそがマニアにとって信頼できる唯一のSMシーンなのであろう。」ー『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話25』より
を思い出してください。
1970年代から始まるSM雑誌ブーム、続く、1980年代からのAVブームの牽引役として重要な役割を果たしてきた濡木痴夢男ですが、晩年の2000年代には、SMのライブパフォーマンスに、興味と期待をもっていたのが分かります。
濡木痴夢男も、若い頃には、「ピンク演劇」とよばれる、ピンク映画感で映画上映の前に演じられるお色気寸劇の脚本などをたくさん書いていたのですが、ここでいう「ライブパフォーマンス」は、台本の通りに演じられるお芝居のことではなく、「女体の鋭敏な「反応」に、すぐさま「反応」してそれに対して、さらに魅力的に縄をかけていかなければならない。」(『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話24』より)、といったジャズのアドリブ演奏のような緊張感と創造性を求められる作業のことです。
残念ながら濡木痴夢男には、緊縛ライブパファオーマンスの可能性を拓く時間は残されていなかったのですが(さらに、濡木痴夢男の独特な性格から考えて、同志であるマニア以外の一般エロ観客がいるステージで自分の緊縛を披露するのは、とてもヨシとしなかったでしょう)、今回紹介する明智伝鬼は、濡木痴夢男とはまた違ったルートで緊縛の世界に入り、ライブパファオーマンスを中心に強烈な個性を発揮した天才緊縛師です。
明智伝鬼のインタビューを読むと、濡木痴夢男と同じように幼少の頃からスケベであったことが分かります。いくつかのソースに「小学3年生から奇譚クラブを読んでいた」と書いてありますが、1940年生まれだと考えると、1950年前後の奇譚クラブを読んでいたこととなりますが、この頃の奇譚クラブは、『SM美容術入門45 - 濡木痴夢男(1)』でも登場した、須磨利之がまだ奇譚クラブの編集長に就任する前の一般的なエロ雑誌の時代です。
まあ、それでもエロ雑誌には違いませんから、スケベな子供だったのでしょう。その他、「デカメロン」「裏窓」なども子供の頃から読んでいたと述べていますが、「裏窓」は1956年創刊ですので、高校生以降に初めて目にしたはずです。まあしかし、こんな細かいことはどうでもいいですね。
1947年にカストリ雑誌として創刊された「デカメロン」。数あるカストリ雑誌の中では、目立った存在だったと思われる。
濡木痴夢男は、読むだけでなく、奇譚クラブに小説を投稿し、最後はとうとう「裏窓」の編集長になってしまうといった、文学青年タイプ。イメージの膨らみを大切にする「妄想型」の緊縛師だったと思います。一方で、 明智伝鬼は、どちらかという「実践型」の緊縛師です。つまり、妄想よりも実際のプレイを重視するタイプ。
濡木痴夢男が私淑していた須磨利之も「妄想型変態」だと思います。だいたい、小説とか絵とか写真などに入れ込むのは妄想型変態です。
面白いことに、須磨利之と同時代に奇譚クラブで活躍していた変態に辻村隆という人がいるのですが、こちらは「実践型変態」。奇譚クラブに、自分が生で経験した「SM体験レポート」みないなのを連載して、人気を博していました。明智伝鬼は、辻村隆との交流もあったようです。「お互いの愛奴を交換していた」なんてことも書いているので、実践型変態同志、相通じるところがあったのでしょう。
「三大縄神様」には入れていませんが、やはり戦後SMの形成に重要な役割を果たした辻村隆。TVや映画にも出演してSMの普及につとめました。
「実践型変態」の明智伝鬼。本来なら、せいぜいマニア雑誌に「プレイレポート」のようなものを投稿して、表に出ることもなく変態遊びを楽しんで人生を終わったのでしょうが(それが普通の変態さんの一生です)、ところが1980年代前後から、世の中のSMブームにひっぱられて、表舞台に出るようになります。
この明智伝鬼を表に引っ張り出したのが、桜田伝次郎という人。明智伝鬼の「伝」は桜田伝次郎の「伝」から取ったと言われており、つまり明智伝鬼の名付けの親でもあります。
桜田伝次郎も、これまたSMの歴史の中で重要な人物なのです。基本的に桜田伝次郎は元は芝居の人。
いわゆる1970年代にブームとなっていたアングラ劇団を主宰していた人で、表の名前は別にあり、そちらでも活躍していた人です。
1980年代初め、30才そこそこの頃の桜田伝次郎。SMビデオの監督としても活躍していた。
劇団の主宰者である桜田伝次郎をSMの世界に引きこんだのが、またまた劇団の主宰者の玉井敬友という人。
ややこしくなりますが、SMショーのブームの発端を作ったのは、この玉井敬友という劇団主宰者の1970年代の一連の活動なのです。
1971年頃の、20代後半の玉井敬友。この頃、大阪を中心にアンダーグラウンドな活動をおこなっていました。玉井敬友、桜田伝次郎、明智伝鬼、と、みんな黒サングラスしていますね。
さてさて、明智伝鬼の紹介なのに、次々と別の人が登場してすみません。たくさん出てきたところで、もう一人大切な人を!それは長田英吉。「SMショーの父」と呼ばれる人なのです。この方も、玉井敬友、桜田伝次郎に大きく関係してきます。
1987年、長田英吉60歳をこえた頃のショーのレポート。マスコミにもよく登場した「SMショーの父」と慕われた緊縛師です。
「え?SMショー始めたのは、いったい誰なの?桜田伝次郎でないの?玉井敬友?長田英吉??」
ほんと、ややこしくてすみません。その答えは、次回のお楽しみと言うことで・・・(続く)
1970年代はアングラの時代。これは寺山修司が率いる天井桟敷の公演、「身毒丸」。今でも公演される名作です。
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