告白します。実は私はMなのです。
「S」は責める側で、「M」は責められる側という役割分担で遊ぶのがSMプレイなのですが、
「ぎゃー、いやー、気持ちいいー、やめてー、もっとー、もっと強く〜」
と叫び喜ぶMさんに応えるべく、汗を流して叩いたり縛ったりするSの姿は、まさにMの奴隷。
「SMのSはサービスのSです」と言うSさんも多いです。
じゃ、そうやってMの奴隷のようにサービスするのが、いやなのかというと、それがまた楽しいので、結局SはMなのです。
この
「SとMは表裏一体」
「SもMもSとMの両面を持っている」
「SとMは可逆的」
ってのは、SMの基本みたいなところで、「SM美容術入門」の39回目に取り上げるような話題でもなく、1回目か2回目ぐらいで取り上げるべきものでしたが、これからSMを楽しもうかなという方のために、ここで確認しておきましょう。
一般の人に「SMで有名な日本人、誰か知ってます?」と質問すると、「団鬼六(だんおにろく)」が一番トップに来るかもしれません(ほとんどの人は誰も思い浮かばないでしょうが)。
もう亡くなった人ですが、SMとは関係のない将棋の小説でも名作も多く、筆力のある小説家。
少しだけSMをかじった人からは、サディストの大将みたいな怖い人と思われたりもしますが、実際は、優しい人でかなりM性も強い人。
小説書いたり、絵を描いたりする人は、責められる側の心も持っていないと良い作品ができないので、当然といえば当然ですよね。
団鬼六の初期の作品から、そういうことを書いている部分を引用してみましょう。
『鬼六談義』(芳賀書店, 1970)より『三文SM人生論』から。
「『花と蛇』的な世界を楽しめる人は、純粋なSでも、またMでもなく、S が60、M を40位の割で含有している人であり、今まで私がいったS 型の性質とM型の性質をチャンポンに持っていると思うのだがどうだろう。」
『花と蛇』というのは団鬼六の代表作。何回も映画になったり、舞台にもなったっり、SMの普及に大きく貢献した小説です。
その愛読者はSとMの両面をもってるかもね、と遠慮がちに書いていますが、ようするに、SMマニアはSとMの両面を必ずもっているということ。
晩年には、そうはっきりと言い切っていたと思います。
逆に、「Sが100%」「Mが100%」に近い人ってのは、確かにいることはいますが、かなり少数派です。
「いや、私は100%Mです」って思っている人の大方の場合は、かなりS性強い人です。
「(事務所の若い男性が)トルコ嬢にサービスされる時は、性を倒錯させて、自分を責められる女に置き変えてしまっています、といい出した。これが『花と蛇』 マニヤの複雑微妙な所である。S だと思っていたY君も一皮むけばM になってしまうのである。」
SM好きの人は妄想好きの人。妄想(空想、イメージ遊び)は、自分も相手も、頭の中で一人で演出するので、自分から相手へと順次に乗り移る事ができます。つまり、責めながらも、責められる側の心に瞬時に切り替えられるのが、SM好きの人達の得意技。反対に、責められる側も、責める側に乗り移ることもできます。あるいは、第3者的な立場で、二人のヘンタイ行為を客観的に眺めて楽しむこともできます。そういうことを、鬼六の部下の言葉に置き換えて説明したのが上の文(ちなみに、トルコ嬢とは、今のソープ嬢)。
「子供の頃、Mの形をとって来た者は、長じてSとなり、S の形をとって来た者は、長じてM になる」「SM というはっきりした形をとらなくても、人間にはその成長期に性を倒錯させる時期がある。 西鶴の好色一代男を読んでも、あの好色な世之助がやはり子供の頃には稚児遊びに血迷い、男の尻を追い廻し、つまり、女形時代があるのだが、別に世之助でなくても、昔は少年が性を倒錯させて男と寝るのは少しも不自然ではなく、この順を踏んで性的に成長するのである。だか ら、S だってM の時代があった筈なのだ。」
何でもOKと許容力が大きいところが団鬼六の人間的な魅力の1つです。人類皆ヘンタイなのです。
団鬼六への長期にわたるインタビューなどをベースに、大崎善生が団鬼六の伝記を書いているのですが、この伝記のタイトルも『赦す人』。全てを受け容れてしまう団鬼六の魅力を知ることができます。
団鬼六は小説家ですので、表現もやや間接的。同じ文学でも文学研究者、つまり大学の先生となると、よりシャープな説明となります。
鹿島茂『SとM』(幻冬舎, 2008)から。
「SMとは、「想像力」を核とした「関係性」であり、嗜虐も支配関係も、 二人の想像力によって規定されているものなのです。つまり、SとMとはあくまで相対的なものなので、「すべての相手に対してS」というのも、「すべての相手に対してM」 というのも、どちらも、存在しないのです。極端なことをいえば、SとMは、他者との関係性において、いくらでも可変なものであり、ある人にとってはS(M)になる人が、別の人にとってはM(S)になるなどと いうことさえ充分にありうるのです。ときには、ロールチェンジが起こってしまうことさえあるのです。」
鹿島茂は、NHKの「100分 de 名著」などにもしばしば登場する明治大学のフランス文学者。
この『SとM』(幻冬舎, 2008)は、SMとキリスト教の起源を論じた真面目な本ですが、SMプレイの本質についても極めて的を得た解説がなされています。
上の表記も、相対的な関係でSとMの役割分担が決まるだけなので、フレームが変われば、SがMになったり、MがSになったりするのは、アタリマエ、といったことを書いています。
文章を書くのを仕事としている人は、いろいろとためになることを残してくれているので、ありがたいです。
三大縄神様としてしばしば登場する濡木痴夢男も、緊縛師のみならず、作家、編集者としての顔ももちます。
いろいろな書籍も出していますし、ヘンタイのための図書館「風俗資料館」のWebでは、『濡木痴夢男のおしゃべり芝居』といった215回にわたるエッセイが無料で読めるので、是非読んでみて下さい。
その中から、いくつか引用してみましょう。
『濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第七回』より。
「縛るときに、相手の女性に対して、サディスティックな感情を抱くことなんて、考えてみれば、ひとかけらもないのだ!」「私が落花さんを縛るときには、彼女を愛撫したい、この肉体をさわりまくり、いじくりまわしてやるぞ、という感情しかないのだ。その私自身の快感を高めるために、縄が必要なだけなのだ。」「偉そうぶって、もっともらしく、SとかMとか言ってるけど、本当はSでもMでもなく、単なるF、つまり、フェティシストにすぎないのだ。」
濡木痴夢男は、「自分は単なる縛り係にすぎません。緊縛師なんて「師」がつくようなたいそうな人ではありません」と、謙遜というか卑下したようなもの謂をよくする人ですが、逆に緊縛に対するプライドと真剣さは相当なものがあり、それ故「縄神様」として崇め奉れられているわけです。
『濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第十一回』より。
「本気」 でなければSMではない、と思っている人は、意外に多いのです。ごくふつうの心の優しい常識人の中に、そういう人がいるので困ることがあります。 私たちがどんなに「本気」らしく演じても、結局は「ごっこ」でしかないのです。」
文庫本もたくさん出ていますので、その中から「緊縛美」に関するところを拾ってみましょう。
「プレイとはお互いに余裕のある心から生まれる、 つまり「遊び」なのですから、ドラマの中の男と女も、お互いに愛情をもって快楽的に、この遊戯を実行します。」
「ドラマとしてではなく、実生活の中で、 こんな暴力を本気でふるう男は、もちろん下等な人間にきまっています。」
(「下等な人間」というところに、プライドが感じ取れますね。)
「暴力で本気になって女体を拘束し、蹂躙するところに「緊縛美」は無く、お互いに理解し、 納得しあって縛り縛られる「遊び」の中から「緊縛美」は生まれる、と思っていただいて、 まず間違いないでしょう。」
三大縄神様の中で、濡木痴夢男だけが筆がたつので、いろいろためになる文章を残してくれています。残念ながら、あとの二人の明智伝鬼と雪村春樹は、あまり文を書くのが得意ではなかったようで、残していません。ただし、映像や写真で素晴らし作品を残しているので、そこからいろいろ読み取ることができます。
雪村春樹に関しては、短い詩的な言葉で(しかも関西弁)で本質をついたものを少し残しているので、最後にそれを紹介しましょう。
「『舐めたろか』も『舐めさせてください』も同じことや」
「ホンマに尽くすM女なんて知らんわ。」
【Take-home message-65】SとMは関係性から決まるものに過ぎず、容易に変換し得ます。
何回も繰り返し映画化されている『花と蛇』。2014年版の宣伝動画です。
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