西から危ないオッサンがやってきた!!
『三大縄神様』とは濡木痴夢男、明智伝鬼、そして今回から紹介する雪村春樹の3人なのですが、もちろんこれはサロンさんが勝手にそう決めただけ。
でも、おそらく緊縛が好きな人なら、9割以上の人は濡木痴夢男、明智伝鬼が三大縄神様に入るのには異存がないはず。
3人目に雪村春樹を入れることについては、6割ぐらいの人は同意してくれるかと想像しますが、あとの人は「いや、伊藤晴雨を入れるべき」「辻村隆の方が重要でしょ」「長田英吉を忘れてはいけません」「二大縄神様でいいのではないの?」と主張されるかもしれませんが、まあいいんです。SM美容では濡木痴夢男、明智伝鬼、雪村春樹が『三大縄神様』なのです。
そう。確かに雪村春樹は濡木痴夢男に大きく影響を受けており、縛りによってはどちらが縛ったのか分からない作品もあるぐらいです。濡木痴夢男と明智伝鬼の縄は、いろんな意味で大きく違います。
濡木痴夢男は、SM雑誌の全盛期からAVの黎明期に最も活躍した緊縛師なので、「雑誌・ビデオ」作品で最も素晴らし作品を残しています。これに対して、明智伝鬼は、今に続くSMショーの流れを確立した緊縛師。「SMショー」で素晴らしいパフォーマンスをおこなった緊縛師です。
『SM美容術入門19-誰のための縄か』『SM美容術入門20-アマチュア縄』『SM美容術入門36 -1, 2, 3・・・1』などでも繰り返し述べたように、プロの緊縛師さんは、鑑賞者の存在が前提。メディアの特徴、鑑賞者の求めるものに合わせて縄が進化していきます。
濡木痴夢男の場合は、SM雑誌の読者が、いかに妄想を膨らませるかを意識した緊縛作品を目指します。撮影現場にはスタッフしかいませんので、時間をかけて縛り方やポーズを決め、複雑な吊りなどの場合には、アシスタントが手伝って、セーノ、よいしょ!といった感じで縛る場合もあります。
明智伝鬼の場合は、ステージが中心ですので、常にリアルタイムで鑑賞者が眺めています。決められた時間内で、素早く縛り、展開し、解く必要がありますし、ステージではどうしても吊りが中心となりますので、受け手の安全にも万全の注意を払う必要があります。したがって、必要とされる緊縛テクニックも、雑誌の緊縛の場合と大きく異なってきます。
このような、表現媒体の違いに由来する濡木痴夢男と明智伝鬼の縄の違いに加えて、濡木痴夢男と明智伝鬼の性癖の違いも大きくこの二人の縄の違いを生み出しています。というか、むしろこちらの方が重要なのかもしれません。
縄好きの受け手さんはよく分かっていることだと思いますが、同じ後手縛りを受けても、縛り手が異なると、受ける感覚は全くことなります。おそらく、濡木痴夢男と明智伝鬼に同じパターンの緊縛をしてもらったとしても、全く異なる緊縛となるでしょう。
こう考えると、表現メディアの違いによる緊縛の差というのは、結局あまり意味がないのかもしれませんが、史実としては濡木痴夢男は「雑誌・ビデオ」作品にたくさん関わり、明智伝鬼はステージでのパフォーマンスが多かったということは変わりません。
話はもどりまして、今回から紹介する雪村春樹ですが、雪村春樹はいったいどのような時代背景の中で、緊縛を発展させていたたのでしょうか?
お笑い系TVレポーターとして人気を博していた1980年代前半の雪村春樹(天津比呂志という名前で活躍)。
濡木痴夢男が1930年、明智伝鬼が1940年生まれ、雪村春樹は1948年生まれですから、『三大縄神様』はおよを10年ごとの年齢の差があります。
濡木痴夢男や明智伝鬼は関東の人ですが、雪村春樹は関西の生まれです。
また、濡木痴夢男や明智伝鬼が、小学生の頃からヘンタイ性を発揮していたのに対し、雪村春樹がSMに目覚めたのは随分と年をとってからのようです。高校生まではスポーツに打ち込む普通の、ただしスケベな人だったということです。
雪村春樹は、キャリアを写真家から始めています。最初は商業写真家として、商品などの写真を撮影していたようです。
どういう経緯かは知りませんが、関西地方の放送局(毎日放送やサン放送)とつながりがあり、1980年代の初めには、毎日放送の人気番組「ワイドYOU」のミステリーコーナーでレポーターとして人気を博していたようです。ちなみにこの頃の名前は、天津比呂志。これももちろん本名ではありませんが、その後も、一部のビデオや映画では天津比呂志の名前で出てきたりもします。
やがて、おそらく1980年代の中頃だと思われますが、当時のSMスピリッツの編集長であった中原冬一朗(この人は団鬼六が作った「SMキング」というSM雑誌の編集者をしており、その後別冊S&Mスナイパー、SMスピリッツの編集長をしています)から、写真家としての雪村春樹の名前をつけてもらったようです。
SMスピリッツ1984年6月に掲載された雪村春樹『浪華あぶとぷあ』。
1984年のSMスピリッツには、大阪からの風俗レポートとして雪村春樹名での連載が開始しますが、ここは縛師ではなく「写師」として紹介されています。
まだ、縛るよりは写真撮影の方がメインだったことが分かります。
S&Mスナイパー1984年9月号に掲載されている雪村春樹の緊縛作品。
実際、1984年のS&Mスナイパーに掲載されている緊縛写真の縛りを見ても、緊縛に関しては、この頃はとても「下手くそ」であることが分かります。
もっとも、初期の明智伝鬼の縛りも、たいした縛りではなかったという話も聞いた事があります。短期間の間にめきめきとその緊縛技術を完成させたのが『三大縄神様』達の凄いところなのかもしれません。
この頃には、サンTVの「大人の子守唄」という深夜エロ番組でも写真家として雪村春樹の名前で登場してきますし、また「写真時代」という写真専門誌にも、雪村春樹の名前で実験的な写真作品を発表しています。いずれもSM作品ではなく、エロティックな写真作品です。
カメラマン雪村春樹として深夜お色気TV番組に出演しはじめた1980年代中頃か?
「写真時代」1986年2月号に掲載されたポラロイドを用いた作品。
このように、40才ぐらいまでは、単なるエロカメラマンにすぎなかった雪村春樹が、その後どのように『三大縄神様』と称されるまでに、緊縛の技術を磨いていったのでしょうか?
雪村春樹は兵庫県の西宮市に生まれ、その後、兵庫県や大阪市を何度が引っ越ししたようですが、ここまでは関西をベースとして活動。
1988年、40才に入った時に関西から東京へと上京してきます。
どういったきっかけで上京を決意したのかは分かりませんが(あるいは関西のTV関係者がAV会社を立ち上げるということで誘われたのかもしれません)、上京後、いわゆるAV作品の監督としての活動が始まります。ここでもやはり、SM専門の監督というわけでもなく、アマツヒロシの監督名で、一般AV作品も撮影しています。
雪村春樹が「アマツヒロシ」名で監督した1990年の一般AV作品(VIPから)
AV監督としてスタートした雪村春樹の東京での生活。ただのSMがチョイ好きのエロ監督が、縄の深い世界に踏み込むきっかけとなったのは、『SM美容術入門45 - 濡木痴夢男(1)』などでも紹介した、濡木痴夢男の師匠とも言える、須磨利之にスポットをあてた「縄炎 ~美濃村晃の世界」(シネマジック、1989)の制作を監督したことによるのではないかと思います。
ということで、続きは次回のお楽しみ。
晩年の須磨利之(美濃村晃, 1920-1992)。須磨利之にスポットをあてた「縄炎 ~美濃村晃の世界」(シネマジック、1989)より。監督は雪村春樹。
1980年代前半の毎日放送の「ワイドYOU」では、TVレポーターとして人気がありました。「天津比呂志」という名前で登場しています。
1980年代中頃のサンテレビ「大人の子守唄」では雪村春樹という名で登場します。カメラマン時代です。
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