表に出てきた変態様

三大縄神様」の中で一番年長者が濡木痴夢男で、1930年生まれ。その次が明智伝鬼で1940年。

ご両人とも子供の頃から変態で、女性を縛ることになみなみならぬ興味をもっていたのですが、これらの人達の若い頃の時代は「SM=ほとんど病気=ありえない人」といった感じの世の中。

SMはひたすら隠れて楽しむしかなかった時代です。人目を忍んで一部の書店に置いてあるマニア雑誌を読むことぐらいしか情報源がありません。 

ひたすらSM趣味を隠さなければならない時代が戦後何十年か続いていたのですが、60年代、70年代に入ると様子が変わります。いわゆるカウンターカルチャーの流れが世界中に広がり、既成の価値観の破壊が進みます。

それまでタブーとされてきたこと、やってはいけないことをあえてやることが、なんとなく格好イイ時代になります。

「セックス」なんてそれまで口に出すのも憚れたのですが、それを取り上げることが進歩的だと考えられるようになります。

中でも、もっとも恥ずかしい「SM」も、この時代には「カルチャー」として好んで取り上げられます。

ナウなヤングはサイケでセックスざんす。

1980年代に入ると、性文化の繚乱時代。文化、性風俗、日々の生活にセックスが大胆に入り込んで来ます。

さて、この時代インターネットなんて当然ありませんので、いろいろな情報は雑誌が中心。

今もネットのチケット販売で残っていますが、「ぴあ」という隔週誌が文化の情報源として存在感がありました。

80年代の初期のぴあを覗いて見ると、SM関係のイベント情報がたくさん掲載されているのにびっくりします(後に、掲載されなくなりますが)。

これなんぞは、1981年9月25日にアルスノーヴァと呼ばれる、伝説的な小劇場で開催される「Sadism・Masochism原理第一章・謎の力」という、何やら難しそうな芝居の紹介。

主催者は向井一也という、奇譚クラブの時代から変態活動をしていたSM愛好家。

小難しい学問的・哲学的テイストを前面に出して、「私は変態ではありませ〜ん」というフリをして、60年代からSM劇をずっとやってきた人です。

こういった人の活動も、1980年代に入ると、「ぴあ」に紹介され、普通の人の目に触れるようになる訳です。

 

さて、この 向井一也という変態さんのSM劇を見て刺激を受け、「私もSM劇をやるんだ!」と始めたのが「SMショーの父」とも呼ばれる長田英吉(「おさだ」と読みます)。『SM美容術入門47 - 明智伝鬼(1)』で登場してきた有名な変態さんです。

「オサダ・ゼミナール」という変態の集いを、70年代に、あちらこちらの小劇場でSMショーをやっていたようですが、あまり記録が残っていません。

本業の合間にやっていたようなので、細々と目立たないようにやっていたのでしょう。また、70年代は、SMに関してはまだそういう時代だったのです。

 

1978年頃の「オサダ・ゼミナール」のショー。この頃になると、かなりおおっぴらにやっていたようです。

めだたないように、おそるおそるやっていたSMショーを、表の世界に引っ張り出してきたのが、 『SM美容術入門47 - 明智伝鬼(1)』で名前を出した玉井敬友

この人はいわゆる変態さんではないようです。劇団の人、というか、とにかくノリが良くて、目立つことならなんでもやります!って感じの人。

1970年代の初めから大阪でスキャンダラスなイベントを企画し、ハプニング喫茶みたいなのも作っていたのですが、

1976年に上京して「シアタースキャンダル」という劇団を結成します。

既に大阪時代には、上記の向井一也や長田英吉とつながりはあったようです。なにせ、「SM」は、まさに「スキャンダラス」。玉井敬友にとってとても魅力的な素材だったのでしょう。

上京してまもなく、玉井敬友は六本木の劇団稽古場で「SM実験劇」シリーズを始めます。

この時、SMのアドバイザーとして長田英吉に声をかけ、長田英吉を講師としたSM教室のようなものも開始します。長田英吉の「オサダ・ゼミナール」そのものも玉井敬友の稽古場でやっていたような感じもあります。

1977年頃のシアタースキャンダルによる実験劇の様子。玉井敬友は、とにかくメチャクチャなことをするので有名でした。

既に述べましたように玉井敬友は、特にSMマニアではなかったようで、そのせいかどうかは知りませんが、とにかくメチャクチャに受け手を責めるので有名だったようです。

受け手が、体を鍛えた劇団員の場合は良いのでしょうが、いわゆるモデルさんに激しい責めをして、モデルが逃げ出すってのもしばしばあったようです。

SM愛好家ではなかったのですが、玉井敬友はSM要素が人々の心を強く惹きつけることを良くわかっていたのでしょう。

基本的には劇団の運営資金稼ぎに「SM実験劇」やストリップ劇場でのSM興行などをやっていたのですが、本来の劇団の公演にもSM要素をどんどんと入れていきます。

その結果、「自由劇場」「ヤクルトホール」「草月ホール」といった、エロとはあまり関係のない劇場で、SMを取り入れた芝居がおこなわれ、それを一般マスコミが大々的に取り上げることとなります。

さて、ここでもう一人、やはり『SM美容術入門47 - 明智伝鬼(1)』で紹介した桜田伝次郎が登場します。

桜田伝次郎も玉井敬友と同じく、劇団の主宰者。どういうきっかけか知りませんが、玉井敬友の稽古場でのSM実験劇の手伝いをすることになったようです。

それがきっかけで桜田伝次郎は長田英吉を知ることとなり、やはり長田英吉のSMショーのノウハウを学びながら、独自にSM劇を開始します。基本的には玉井敬友と同じく、劇団の資金稼ぎだったのでしょう。「GSG企画」という劇団とは別の名前を用い、最初は劇団の稽古場、やがて、あちことでSMショーを始めることになります。

1981年頃のGSG企画によるSMショー。

さて、なかなか 明智伝鬼が登場しなかったのですが、ここでようやく登場。

おそらく1970年代の終わり頃か、1980年だと思いますが、桜田伝次郎が開催していた会員制のSMショーの1つに、観客として申し込んで来たのが明智伝鬼ということになります。

長くなったので、続きは次回で。

 

1966年のクリームのライブより。ロックもジャズも現代音楽も元気モリモリ何でもやった時代です。

1969年から放送の始まった「プレイガール」。エッチでクールで、縛りシーンなどもしばしば登場しました。 

 

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連載『SM美容術入門』