80歳を超えてもプライベートで緊縛を楽しんでいた濡木痴夢男は凄すぎます。

 

 

 

 

 

SM美容術入門45 - 濡木痴夢男(1)』の続きです。

濡木痴夢男という名前が誕生したのは1973年。濡木痴夢男、43才の時。「SMセレクト」というSM雑誌の緊縛を担当する時につけられた名前です。

23才の時からSM小説を書き始め、28才でプロの小説家に転向。31才に「裏窓」の編集長になった頃から、実際に生身の女性を縛り始めた濡木痴夢男。

その後、「サスペンスマガジン」「あぶめんと」とヘンタイ雑誌の編集を続けます。

1960年代に相当するこの編集長時代は、今では想像しにくいぐらい「SMを趣味にしている」ことがイケナイこととみなされた時代。

雑誌を読みながら、「こんな病的な趣味をもってる人達がいるんだ〜」とニヤニヤしながら妄想するのは良いのですが、「自分がSMをやる」ことは、ありえない時代。やってはいけないことで、もしSMをやっていて、それがばれるようなことがあれば、即、社会的に抹殺された時代です(今でも、ほとんどの人は、職場で「私の趣味はSM」なんて言えませんが)。

そういう時代の、ごくごく少数派の「マニア」のために、目立たないようにひっそりと出版されていたのが、「裏窓」「サスペンスマガジン」「あぶめんと」。「奇譚クラブ」から続く、戦後のマニア雑誌の流れです。

 

しかしながら1970年代に入り、世の中の流れが変わります。

60年代の世界的なカウンターカルチャーの影響を受けながら、70年代は性の解放の時代に。

それまで口に出すのもはばかられた「SM」という言葉が、70年代には、逆にファッショナブルな響きさえもつようになります。

いわゆるマニアではない人達が編集者となり、「SM雑誌」を製作する時代に入ります。しかもそれが「バカ売れ」する時代でした(全盛期にはSM雑誌が10数誌以上乱立し、SMセレクトだけで10万部越えだったという話もあります)。読者層がマニアだけでなく「チョイエロ」の人達へと広がることとパラレルな現象です。

このような背景の中、70年代に入り、それまでの編集長としての雑誌編集ではなく、グラビア用緊縛写真の「縛り係」としての濡木痴夢男の仕事が始まります。そこでは濡木が好む緊縛ではなく、編集者が「売れる」と判断する緊縛が要求されます。

もちろん、編集者、カメラマン、そして緊縛師である濡木痴夢男の共同作業からの創作活動ではあったのでしょうが、自らが編集長として仕事をしていた60年代のようにはいきません。後述する、晩年の濡木痴夢男のエッセイには、この時期のじくじくたる思いが綴られています。

 

いずれにせよ、1970年代に入り、濡木痴夢男は、縛りに関わる機会が劇的に増えます。1973年の時点で、「500余名の女性を縛った」とあるのが、あっという間に数千人に達します。そして、この時期、濡木痴夢男は急ピッチに緊縛技法を体系化していきます。

 

濡木痴夢男の緊縛の変遷を見てみましょう。

前回お見せしたように、「裏窓」時代の濡木の縛りはシンプルで叙情的な緊縛。須磨利之の影響を受けているのかもしれません。

SM雑誌の「縛り係」になってからは、次第に縄を多く使った、複雑な縛りが増えてきます。用いる縄も、綿ロープは消えていき、写真映えのする麻縄が中心となります。 

おそらく濡木痴夢男の緊縛と思われるSMキング1974年10月号のグラビア。カメラは杉浦則夫かもしれない。

緊縛写真には、緊縛師ももちろんのことながら、カメラマンの腕も大きな位置を占めます。

特に濡木痴夢男はカメラマンの好き嫌いが激しいタイプで、ウマが合うカメラマンと素晴らしい作品を残しています。裏窓時代には吉田久ラメラマンとの相性がよかったようです。

縛り係となった翌年の1974年頃には、その後の伝説的なコンビとなる杉浦則夫とのコラボレーションが始まります。

この頃のグラビアにはカメラマンの名前が明記されることはあっても、緊縛師(そういう言葉もまだなかった時代です)の名前がクレジットされることはまだありませんでした。

ただし、根がモノ書きの濡木痴夢男は「撮影記」のような記事をSM雑誌に掲載するようになるので、詳細が読み取れる場合もあります。

 

SMセレクト1976年12月号より。カメラは杉浦則夫。

上のグラビアは杉浦則夫とのコンビの初期(1976年)の写真。杉浦則夫の代名詞ともいえる 特徴的な照明はまだ顕著ではありません。

 

SMセレクト1980年4月 カメラは杉浦則夫。

1980年の作品では、いわゆる「昭和SM」のイメージをつくった「濡木ー杉浦」テイストが完成しています。1980年頃と言えば、月刊SM雑誌が十数冊出版されていた、SM雑誌の全盛期。緊縛師がまだほとんどいなかった時点ですので、これらの雑誌のかなりの部分を濡木痴夢男が担当していた時代です。

しかも、80年代に入ると、SM雑誌に加えて、SMビデオが登場してきます。まだ、DVDではなく、ビデオの時代です。

エロビデオには、「グラビア撮影から入ってきた動くビニ本系」の人達と、「ピンク映画から入ってきた映画系」の人達がいます。しばしば登場する、代々木忠などは、後者の映画系の流れです。

濡木痴夢男の場合、それまでSM雑誌のグラビア撮影でカメラマンをしていた、峰一也の誘いでSMビデオの制作を始めたようなので、最初はビニ本系から入っています。

この峰一也というカメラマン、その後通称「アートビデオ」という80−90年代のSMビデオの中心プロダクションの社長となる訳ですが、このアート作品でも濡木痴夢男は多くの緊縛を担当し、伝説的な作品を残しています。

 

アートビデオ全盛期の1988年の名作『餓鬼草子① 奴隷女高生』。濡木痴夢男が縛り係です。

SMビデオの歴史はまた機会を改めてまとめるとして、SM雑誌に話を戻しましょう。

SM雑誌の緊縛写真の撮影では、誰が主導権を握るかご存知でしょうか?現在のように緊縛師がもてはやされる時代では、緊縛師だろうと思われるかも知れませんが、少なくとも当時のSM雑誌のグラビア撮影ではそうではありません。主導権を握るのは「編集者」か「カメラマン」です。

「編集者」は、いわゆる依頼人で、スポンサーみたいなものですから、作品は編集者が求めるものを作らなければなりません。その次に主導権を握るのは、カメラマンだったようです。雑誌編集は、「SM小説家」「絵師」「写真家」の腕や、そして「モデル」の人気度で、売上げが多く変わることを知っています。ある意味、緊縛がたいしたことなくても、カメラマンの腕がよければ、いくらでもカバーしてくれるのです。

「カメラで犯す」スタイルの杉浦則夫は、撮影だけでSMができる天才です。天才杉浦と天才濡木のコンビによる緊縛作品の撮影は、やはり杉浦のペースで撮影が進んていたようです。個性の強い二人の天才のこのコンビは、「両雄並び立たず」で最後は崩壊します。とはいうものの、このゴールデンコンビが生み出した緊縛写真が、昭和SMに与えた影響は計り知れないもの。今、観てもその輝きは失われていません。

 

濡木痴夢男にとって、編集者やカメラマンを気にすることなく、思う存分自分の緊縛に没頭できたのが『緊縛美研究会』です。略して『緊美研』と呼ばれることが多いです。

『緊美研』は、1980年代中頃に誕生した、マニアのサークルのようなもの。といっても、今の縄会のように、縛り手、縛られたい人が集まって、技を磨く勉強会、っていうのではなく、濡木痴夢男の縛りを、濡木の熱烈なファンがが鑑賞したり、写真撮影したりするといったスタイル。杉浦則夫のアシスタントもしていたことのあるカメラマンの不二秋夫が主催者で、濡木痴夢男が講師。

不二秋夫や、1970年代後半から濡木痴夢男の緊縛写真を撮影していた枷井(かしい)克哉は、濡木痴夢男のお気に入りのカメラマン。おそらく、濡木痴夢男が主導権を握りながら、濡木好みのレベルの高い写真をを撮れるカメラマンだったのでしょう。

「緊美研」の活動は1985年からおよそ15年間(2009年に一時復活したようですが)。この間に極めて多くの緊美研ビデオと、23冊の会報誌である「緊美研通信」を残しており、これらは緊縛を学ぶ人の貴重な教材となりました。濡木痴夢男の影響を受けた緊縛マニアも多いかと思います。現在の緊縛シーンの牽引者の一人でもある奈加あきらも、緊美研の熱心な会員で、濡木痴夢男から大きな影響を受けた緊縛師です。

 

不二秋夫のカメラによる緊美研時代の濡木痴夢男の緊縛。

2000年代、したがって、濡木痴夢男が70才を越えた事から、執筆活動が再び盛んになります。

そこには、濡木痴夢男が考える、「SM」「緊縛」「緊縛美」などが熱く語られています。

 

緊縛★命あるかぎり』(2008)

緊縛の美・緊縛の悦楽』(2005)

「奇譚クラブ」とその周辺』(2005)

「奇譚クラブ」の絵師たち』(2004)

性の秘本 責めと愉悦』(2003)

実録 縛りと責め』(2001)

 

2000年代の中頃になると、いわゆる「ブログ」ブームが起こり、その中で、以下の長期連載の濡木ブログがあります。それぞれ今でも読むことができるので、濡木哲学を学ぶには良いソースかと思います。

 

濡木痴夢男の緊縛ナイショ話』2006年1月〜

  「いまさらこんなことをいうのも妙な話だが、私は本気をだして女性を縛ったことが一度もない。」で始まるこの連載は、不二秋夫の後に「緊美研」を引き継いだ春原悠里が世話をしていたと思われるブログ。現在でも春原悠里のサイトで「緊美研」の写真作品と共に、有料で読むことができる。

濡木痴夢男のおしゃべり芝居』2007年8月〜

  「 私の「SM人生」は、本当のところをいうと、私の「演劇人生」と、かなりの部分で、からみ合っています。」と、幼少の頃からの濡木の個人史や晩年のSM以外の活動も紹介したブログ。風俗資料館の女性館長が世話をしていたと思われるブログ。現在でもまだ記録が残っている。

濡木痴夢男の猥褻快楽遺書』2009年9月〜

  「もうすぐ八十歳になるというのに、こんな若い、いい女の、こんなにぷりぷりした弾力のある形のいいお尻を、両手で抱きかかえて、撫でまわし、頬ずりし、なめまわして(ほんとに舌を出してぺろぺろなめるのだ)よいものか、と思う。」20代の落花さんとのプライベートな緊縛プレイなどを語る、S&MスナイパーのWeb版に寄稿した連載。プライベートでは、麻縄ではなく、綿ロープを使っているなどの衝撃的なカミングアウトもあるが、80を越えても緊縛プレイを楽しんでいた濡木痴夢男はやはり、凄すぎる。

 

最後に、これらの中から、いくつか、濡木語録とも呼べるような、教えられるところの多い文章を抜き出しておきましょう(太字はサロンがつけたもの)。

 

「いくら縄が好きなM女性といってもその快楽の感じ方は同一のものではない。かなりの個人差がある。ここに100人の縄好き女性がいるとすると、縄の強弱にそれぞれ100通りの好みがある。体の部位のどこをどのような強弱で圧迫すれば 快楽を感じるかにも好みがある。」 ー『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話2』より

「縄は生きものであり、縛られる女体ももちろん生きものである。そして、生きものは動く。 動くものは、動きながら変化をしていく。縄の動き、女体の動きを予測し、計算しながら 私たちは縛りを進めていくのである。」 ー『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話2』より

 「何度かくり返して縛っていても、モデル嬢のその日の感情、体調によって反応が変わるので、ほとんど初対面と同じである。」「いきなり偶発的に、瞬間的に、ドラマチックな反応、つまりポーズとか表情とかが女体に出現する。」「その瞬間をとらえることがカメラマンの仕事であり、そこから縄を効果的に加えてさらに魅惑のポーズを展開させていくのが縛り係の役目」「撮影進行中の女体の鋭敏な「反応」に、すぐさま「反応」してそれに対して、さらに魅力的に縄をかけていかなければならない。」ー『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話24』より

「テクニックというのは、しょせん、テクニックにすぎない。つまり、技巧にすぎない。」「緊縛快楽に最もたいせつなのは、相手との心の交流である。」「小手先のテクニックよりも、心と心の密度の深さに、緊縛の快楽度が比例してくる」「「SM」の快楽に、最も必要なのは、じつは知性なのである。「SM」においては、知性こそが、快楽の高さ、深さを決定する。 」ー『濡木痴夢男の猥褻快楽遺書12』より

「緊縛愛好家というのは、私の知るかぎり、いわゆるMの性癖を多く持つ。」「ホンモノの愛好家諸氏のほとんどは、程のよいS性とM性の持ち主である。 」「ときにはMのほうが強烈な場合もある。」「女性に虐められたいという欲望を持っている男でないと、同好の士つまり緊縛マニアの心を納得させる「縄」の表現はできない」ー『濡木痴夢男の猥褻快楽遺書23』より

「女性器に自分の性器を挿入したい欲望を抱く男、つまり正常の欲望を持つ男が、いくら女性緊縛の技術を身につけたとしても、縄には結局、二次的な欲情の力しかこもらない」ー『濡木痴夢男の猥褻快楽遺書34』より

「ステージにおけるショーの場合は、何よりもライブの迫力、責められる女体が、ナマで見られるという刺激がある。AV系のSM映像が真実味を失っていく昨今に、ライブこそがマニアにとって信頼できる唯一のSMシーンなのであろう。」ー『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話25』より

 

濡木痴夢男の動画はYoutubeにはめったにアップされませんし、されてもすぐ削除されるのではと思います。ここでは、濡木痴夢男と名作を残した写真か杉浦則夫と、濡木痴夢男の縄を継承する奈加あきらの対談をリンクしています。 

 

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連載『SM美容術入門』