SM美容術入門53 - 雪村春樹(4)

 円環的な相互作用からトランス空間を共有していきます

 

雪村春樹自身のAV会社「サンセットカラー」からの第一作『縄奉仕 濡れる森村麗子』(1992)のジャケット。

 

AV作品が世に出るためには、おおざっぱには「メーカー」「制作」「流通」の3つのチームの連携が必要となります。

簡単にいうと「お金出す人」「作る人」「売る人」です。

 

自分の貯金使って、自分が作りたいものを自分で撮って、できた作品を自分で売って儲ける、といけば話が簡単なのですが(実際、AV業界はそういった感じで始まるのですが)、業界が大きくなると、分業体制にした方が効率が良いです。

また、そういった分業体制がしっかりしてくると、何か作りたくなったら、メーカーにお金出してもらって、作ったものを誰かに売ってもらうと楽チン、ということで裾野も広がって行きます。

とはいうものの、メーカーも、あくまでビジネスが第一ですので、そのメーカー会社にとって商売になる、つまり儲かるものしか作りません。

ということで、大ざっぱには、「メーカー」「制作」「流通」では「メーカー」が一番力をもちます。

 

これまでに出てきた大洋図書や、シネマジックなどは、メーカーで、大洋図書は、基本的には本屋さんでもあるので、流通、つまり「売る」方も得意です。

メーカーは、会社のカラーにあったレーベルをいくつか作り、そのレーベルの名前のもとに作品を製作します。

濡木痴夢男などがその創立にも深く関係した、SMビデオの老舗、「アートビデオ」も正確にはレーベル名です。

同じく、アートと並ぶSMビデオのメーカーの老舗、シネマジックは、「ノワール」などのレーベルを持ちますが、こちらの場合は「ノワール」よりも「シネマジック」の名前の方が通りが良いです。なので、メーカー名とレーベル名の関係は、複雑なので置いておきましょう。

 

SM作品を製作する時の、監督や緊縛師の位置づけはどんな感じなのでしょうか?

例えば、シネマジックは1983年からSMビデオを作り始めますが、最初はマニア向けの小さなビデオメーカー。

ただし、世の中のSMブーム、AVビデオブームが追い風となり、どんどん大きくなります。

1985年には菊池エリという、Dカップ女優(当時はDカップでも凄かったのです)のSM作品『シスターL』というのが大当たりして、一挙に勢いづきます(ちなみにこの作品、監督はシネマジックの創業者で『SM美容術入門51 - 雪村春樹(2)』で出てきた吉村彰一。緊縛や責めをしているのは、濡木痴夢男を師と仰ぐ中野D児です。)

 

シネマジックの1985年のヒット作『シスターL』。吉村彰一監督作品。

主演の菊池エリ(当時は日比野由美子という名前を使っていました)は、特にSMの趣味はなかったそうですが、その後SM関連のビデオでの人気女優となります(SMビデオに出ている女優さんは、みんなプライベートでもSM好きなのだろうと信じているのは、製作者の妄想の世界にドップリ引きこまれているお客さん。多くの場合は、みなさんお仕事でやっているわけです)。

大ヒットしてしまうと、シネマジックとしては、一発で終わるのはもったいないわけですから、菊池エリのD-カップ作品をシリーズ化して、さらに儲けます。

その1つの1986年に制作した『D-CUP美少女 III 奴隷花』では、今度は菊池エリがややSッぽい役で、もう一人の女優、森下優子を責めます。これがまた大ヒット。

シネマジックはさらに『奴隷花』をシリーズ化し、1989年の『奴隷花8』まで続くヒットシリーズ。この場合は、菊池エリが全ての作品に出るというのではなく、女性が女性を責めるといった内容で、いろいろな組み合わせの女優さんが出演するシリーズとなります。で、『奴隷花』シリーズは8作でも終わらず、1991年からは『新・奴隷花』シリーズが始まります。

シリーズ物の場合、一人の監督さんが全部演出する、という場合もありますが、多くの場合は、作品ごとにいろいろな監督さんが関わります。『新・奴隷花』シリーズでも、雪村春樹が『新・奴隷花 5 乳虐の宴』(1991)、『新・奴隷花 6 被虐の舞』(1992)、『新・奴隷花 9 被虐の微笑』(1993)の監督をしています。

雪村春樹監督『新・奴隷花 5 乳虐の宴』(シネマジック, 1991)。女優は叶順子と今井その子。

ここでの雪村春樹は、分業体制の「作る人」側です。

「お金出す人」のシネマジックから、「これ監督してください」と頼まれて、撮影・編集をし、シネマジックにおさめ、シネマジックはそれを「売る人」に渡すことになります。

SM作品ですので、縛る人が必要となります。男優さんで縛る事のできる人もいますが、おおかたの場合は、画面に出てこない、スタッフとしての緊縛師が参加します。濡木痴夢男や明智伝鬼も、緊縛スタッフとして多くの作品に関与しています。

雪村春樹の場合は、自分で緊縛もできますので、監督兼縛り係となります。

AV作品の中には、緊縛師が前面に出てくる作品もありますが、これらは緊縛マニアのための例外的な作品。多くの購入者は、緊縛師が誰かよりも、女優が誰かの方が気になります。なので、多くの場合は、誰が緊縛を担当しているかも明記していません。

多くの場合は、監督が「それじゃここで、亀甲縛りお願いします。あー、きれいに縛れましたね。じゃ、男優さん、この状態で挿入お願いします」「あ、縄が緩んできたので、ちょっとうまいこと繕ってくれますか」といった感じで進みます。雪村の場合は、緊縛は自分でやりますが、初期の監督作品の多くでは、自分は画面にでずに、男優や女王様が縛ったことにして作品が作られます。

濡木痴夢男は、しばしば「われわれは単に縛り係であって、『緊縛師』と『師』なんかをつけるような偉い人種ではない」なんて内容のことを書いていますが、これはこういった立場に対する不満。SM雑誌のグラビア撮影でも、SMビデオの撮影でも、そこで力をもつのは、出版社やメーカー、あるいは雑誌編集者や監督であり、そこではとても濡木痴夢男がやりたい緊縛をできないのです。

では、濡木痴夢男が本当に自分のやりたり緊縛を作品にするにはどうしたらよいのか?あるいは、雪村春樹が自分の思う通りのAV作品を監督するにはどうしたらよいのか?となると、結局自分でメーカーを立ち上げるしかないのです。

このような背景のもと、雪村春樹は、1992年に自らの会社「サンセットカラー」を設立します。大洋図書の後ろ盾があったのだとは思いますが、とにかく、これで自分の撮りたいSM作品を、思う存分作れることになります。

サンセットカラーとしての記念すべき第一作は、冒頭の写真にある 『縄奉仕 濡れる森村麗子』。1992年にリリースされています。

この作品から、その後の雪村春樹の緊縛の方向性の多く伺い知ることができます。

この撮影は、いわゆるスタジオではなく、普通のマンションの中でおこなわれています。

また、通常撮影には、動画のカメラマン、照明、スチールカメラマン、ジャケット用のカメラマン、メイクや進行などのたくさんのスタッフが関わるのですが、ここではわずか3人のスタッフだけで撮影がおこなわれています。雪村春樹は、監督であり、緊縛師であり、男優。自ら画面に登場し、モデルを縛り、からみます。

インディーズなので、お金がない、というのもあったのかもしれませんが、雪村春樹がここで撮りたかったのは、縄に対する女優の「素」の反応です。そのためには、監督自らが縛り、女優とからみます。二人の世界に没頭するあために、必要最低限のスタッフで撮影する必要がありました。後年、よく口にしていた「気の流れを途切れさせない」ことを重視した撮影です。

この作品ではどうだったのかは知りませんが、雪村春樹の作品の場合、多くはストーリーなどはあってないようなもの。

事前の女優とのインタビューから聞き出した女優の性に対する嗜好や、生活環境などの情報をもとに、「その場」で雪村が即興的に仕掛け、それに対しての女優の反応を雪村が受け止め、さらにそれを返す、といった円環的なコミュニケーションでエロチックな空間を膨らませていきます。

カット割りなどで、流れが途切れるのを究極にまで避けて、素の感情の流れを見せようという姿勢です。

ビデオカメラのさらなく軽量化と高機能化が進んだ1990年代の初頭。

ちょうど、ハンディカメラもった監督一人だけでAV作品を作ってしもうという、カンパニー松尾が出てきたのもこの時期です。

さらにいうなら、雪村春樹がカメラマン時代に作品を投稿していた「写真時代」の1980年代は、ちょうど荒木経惟のブレーク時期。荒木の作品では、被写体そのもよりも、被写体とカメラマンとの「関係性」が写し出されているのが魅力です。そういった時代背景から考えると、「サンセットカラー」がめざした方向性の妥当性がよく分かります。

 

少し 『縄奉仕 濡れる森村麗子』を覗いて見ましょう。

 

ここでは、極めてシンプルな後手縛りをされたモデルに、首輪をかけるシーンです。

モデルの森村麗子が、首輪をかけられ、自分の世界に入っていくのが見て取れます。

「縄奉仕」は、雪村春樹の好むキャッチの1つですが、雪村春樹が見せたいのは「縄」ではなく「受け手の女性」なのです。縄で女性がエロチックに美しくなっていく過程を見せようという狙いです。美しくなっていくのは、女性自身であり、縄はそのお手伝いをするに過ぎないという姿勢です。

縄を用いた縛り手と受け手のやりとり、それで深まるイメージ空間の広がりを見せようとています(ちなみに雪村春樹は、この縄奉仕1の時代には、いわゆるボンデージ系のツールを頻用していますが、次第にツールとしては麻縄にしぼられていきます)。

 

 

1994年(平成6年)9月に開催された第1回の雪村春樹のライブのビデオ。モデルは叶順子と小夜伽。

さらに、雪村春樹は1994年の秋から、ライブパフォーマンスに力を入れていきます。

即時的なやりとりの技を磨いて行くには、失敗の許されないライブでの緊縛がより勉強になったのでしょう。

雪村春樹自身、この 1994−2000年の7年間、および、少し間をあけて2005−2008年の4年間、合計11年間におこなったライブが、大きく雪村春樹の緊縛を成長させたと言っています。

 

これは、1995年3月に大洋図書の6Fでおこなわれた雪村春樹のライブのさわりです。この時のモデルは小泉しおりと三井彩。

この初期の頃のライブはどうか知りませんが、やがて固まった雪村春樹のライブのスタイルは、もちろん打合せや台本は一切無しの、ぶっつけ本番。

モデルの一人は、安全パイとして、過去にお手合わせしたことがある女性で、もう一人は完全に初めてお相手する女性。本番前のわずかな会話で、モデルの女性の嗜好を探り、あとは、舞台上での女性の反応を注意深く観察しながら、それに対する反応を返しながらイメージ空間を膨らませていきます。

さらに、上の例でもありますように、モデル二人を同時に縛ることで、縛り手と二人の受け手、さらに観客も含めた複雑な関係性の中で、それぞれの間の反応を即時的に読み取りながらライブを進めていく、といった高度なパフォーマンスもこなしていきます。

 

ここで大切なのは、縄の美しさでもなく、縛りの高度な技術でもなく、縛り手と受け手のやり取りそのものなのです。どんな簡単な縛りでも、見た目に縄が整然とならんでいなくても、そんなことはどうてもいいことなのです。縛り手がいかに、受け手の放つかすかな信号を鋭敏にキャッチし、それに対する的確な次の反応を返し、共有するイメージ空間をいかに深められるかが、雪村春樹が追求したことです。

メスマー美容術入門21-トランス空間共有』より。

 

さて、お気づきのことだと思いますが、 「SM」美容に関するこのコラムで、なぜ『メスマー美容術入門』が熱心に紹介されているかの理由がここにあります。

緊縛やSMを極めるのは、縄や鞭の技法の勉強も大切と言えば大切なのですが、より重要なのは、受け手とのコミュニケーションの取り方。すなわち、いかに相手の微細な反応を受け取り、それに対する適切な反応を縄を通して返すことにより、縛り手と受けての間のイメージ空間を広げて深めていくか。こちらの方がもった大切なのだ、ということを説いたのが雪村春樹でした。

雪村春樹が2000年代に入って確立した「雪村流」の秘密を、引き続きさらに詳しく紹介していきましょう。

 

雪村流の愛好家の一人、春椿のパフォーマンス。
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連載『SM美容術入門』