縄炎の世界へ

 

トラクターや工作器械などの広告用の写真を撮影する会社でカメラマンとしてキャリアをスタートした10代の雪村春樹。

やがて仕事にも限界を感じ、20代で会社を辞め、母親が経営していた飲食店を手伝います。

この頃から、プライベートで女性の写真を撮っていたそうですが、30代に入る頃から、それらの写真をいろいろな雑誌に投稿し始めます。

さて、SM雑誌の出版社は、いくつかの系統に分類できますが、大手の1つが「大洋図書グループ」。「大洋図書グループ」の傘下には「ミリオン出版」「ワイレア出版」などがあります。この頃の「ミリオン出版」は、「S&Mスナイパー」「SMスピリッツ」などの人気雑誌を出していたのですが、ここらあたりにも写真を投稿していたらしく、『SM美容術入門50 - 雪村春樹(1)』でも紹介したように、1984年のSMスピリッツやS&Mスナイパーに雪村春樹の名前で緊縛写真が掲載されています。

ただ、後に雪村春樹が回顧しているように、この時代の緊縛は、単なる写真撮影時の小道具として緊縛を使っていた時代です。実際当時の写真を見ても、その緊縛も取るに足らないものです。36才の頃の雪村春樹は、まだ緊縛師ではなく、写真家で、またTVのレポーターなのでした。

 

毎日放送やサンTVといった関西のTV局に、レポーターや写真家としても登場していた雪村春樹

TV番組の製作現場で覚えた撮影のノウハウや、人のネットワークを頼りに、雪村春樹は1980年代の後半頃から、映画への出演、さらにAV制作の世界に乗り込みAV監督としての活動が始まります。

AV制作の方は、主に「ビップ(VIP)」という一般的なAV製作会社に加え、「二見書房」「大洋図書」といった出版社がおこなっているAV部門での監督作品を出しています。

特にこの「大洋図書」は、上に出てきた「S&Mスナイパー」「SMスピリッツ」を出版していたミリオン出版の親会社。社長の小出英二もSM愛好家としても有名。雪村春樹との相性が良いようで、雪村春樹が亡くなるまでの20年以上、雪村をサポートしていたようです。

 

さて、1980年代から本格化するSMビデオの世界ですが、よく「SMビデオ二大メーカー」と呼ばれるのが、『アートビデオ』と『シネマジック』。

アートビデオ』の方は『SM美容術入門46 - 濡木痴夢男(2)』にも出てきたように、SM雑誌のグラビア撮影でカメラマンをしていた峰一也が1980年頃に、濡木痴夢男などの助けを借りながら設立したSMビデオ会社。SMファンなら、「アート」と聞けば、増毛よりもSMを連想します。

シネマジック』は少し遅れて1983年に設立された、こちらもまたSM一本のAV製作会社。設立者は吉村彰一で、この人は「サン出版」という「SMコレクター」などを出していた出版社でSM雑誌の編集をしていた人です。

このサン出版は、濡木痴夢男の師匠でもあり、日本SMの第2世代の中心的人物であった須磨利之=美濃村晃(『SM美容術入門45 - 濡木痴夢男(1)』参照)を顧問として迎えてSM雑誌を作っており、当然、濡木痴夢男とも深い関係を持っていました。

シネマジックの設立者、吉村彰一。

須磨利之=美濃村晃は、SM関係者の人達から深く尊敬されており、この吉村彰一も例外でもありません。

須磨利之は、1979年、59才の時に脳溢血で倒れ、その後、不自由な生活を送っていました。

それまでの須磨利之の功績を、いろいろな関係者へのインタビューから振り替えながら、同時に師弟コンビである美濃村晃と濡木痴夢男による緊縛プレイを見せようと企画されたのが、最初の写真でビデオジャケットが出ている『縄炎~美濃村晃の世界~』です。

そして、この作品の監督に抜擢されたのが、雪村春樹。シネマジックには、大洋図書の小出英二が紹介したとされています。

この作品では雪村春樹はまだ、緊縛師ではなく、AV監督です。雪村春樹の声は聞こえますが、姿は出てこず、作中の緊縛も濡木痴夢男が全て担当したものです。

この作品を監督するまで、おそらく雪村春樹にとっては、緊縛は、女性のエロさを引き出すための、ひとつの道具でしかなかったのではと思います。

ところが、この『縄炎~美濃村晃の世界~』の制作を通じて、雪村春樹は、緊縛の奥の深い世界を知ることになります。

 

作中にには、インタビューでSM界の大物、団鬼六や椋陽児に加え、緊縛師の有末剛、編集者の櫻木徹郎(吉村彰一のサン出版での先輩で、後にゲイ雑誌「サブ」などを創刊)なども出てきて、これら一流のヘンタイさんのインタビューは全て雪村春樹がおこなっています。

撮影に2ヶ月かけたという、今では考えられないぐらい時間とお金をかけた作品で、それに見合った完成度の高い作品です。

吉村彰一という人は、映画への思いが強かった人で、2000年には、団鬼六原作の映画『不貞の季節』を制作(これは雪村春樹が緊縛)、さらに、同じく団鬼六の『外道の群れ』を原作とした、伊藤晴雨の物語、『およう』を2002年に松竹から映画にしています(こちらは、竹中直人や熊川哲也が出演しているので、知っている人も多いかも。緊縛指導は濡木痴夢男です)。

この 『縄炎~美濃村晃の世界~』、まだVHSビデオの時代でしたので、ながらく「幻の名作」として限られた人しか観ることができませんでしたが、ファンからの熱い要望に応えてか、2013年にDVDとなって再版されています。アマゾンからもまだ入手可能ですから、是非ご覧になると良いと思います。

 

この 『縄炎~美濃村晃の世界~』を監督できたことが、その後の雪村春樹の方向性に大きな影響を与えたことは、後に雪村春樹も述懐しています。想像するに、本物の緊縛の世界を知る機会を得て、それまでの自分のやってきたオチャラケ緊縛を恥じ入ったのではないでしょうか。

実際、写真家からAV監督へと返信した1990年前後の雪村春樹は、まだ緊縛師としては、ほとんど「ゼロ」の状態だったのではないでしょう。

それを裏付ける、小出英二の証言がネットにありますので、これを紹介しましょう。

これは、雪村春樹が2016年に永眠した際の、追悼文で、WEBスナイパー2016年5月4日に公開されている物です。

全文はオリジナルを読んでいただくとして、関係しているところを抜粋すると・・・

 

1988年頃「フィクション・インクの大類社長と、二見書房の堀内出さんとそして僕の3人で」「アメリカン・ボンデージ」のVHSを輸入していた。

「日本人でボンデージものが撮れないかという話になって「BONDAGE FANTASY」というシリーズを立ち上げたんです。」

「ある人に「縛りのできる監督さんを紹介してくれないか」とお願いしたんです。」「その人が非常にいい加減な方で、紹介されたのが天津(雪村春樹)さんだったんです」

「天津さんは嘘つきだったので、僕が「縛れますか」と聞いた時には「なんでもできるで」と。」

「最初に撮ったのが確か叶順子さんだったかな。」「その時は天津さん、ぜんぜん縛れなかったんですよ。」

「美的センスが優れてた。だからボンデージを撮るには最適な監督であり、カメラマンであったことは確か。ただ縛りはぜんぜんできなかったんですね。」

「横畠(吉村の本名)さんにしろ誰にしろ、縛りでは使いものにならないというふうに見ていたと思います。」

「最初は僕のほうが上手かったんだよ。」

「いやホントに。急に向こうが上手くなっちゃったんだけどさ。」

 

とまあ、悪友への追悼文なので、やや誇張された部分もあるかもしれませんが、1990年前後から本格的に緊縛を始めた雪村春樹は、わずか2〜3年の間に、急激に緊縛のレベルを高めたことは事実のようです。

手元にある初期の作品を観てみても、 

 

例えば、これはシネマジックの1991年の作品『採集された乙女たち』ですが、車の中での緊縛という悪条件を考慮してみても、雪村流の緊縛を学んだ人にとっては、ほぼ「0点」のダメダメ後手縛りです。

 

ところが、1992年のサンセットカラー(雪村のインディーズメーカー)の『調教・女校生 晶』では、晩年の雪村流の後手縛りの真髄が見て取れます。

 

なんだ?どこが違うの?1991の方がちゃんと縛ってんじゃないの?

と思われる方は、雪村春樹がめざした奥深い緊縛の世界を、以降の連載から学び取ってください。

 

 

雪村流を学んだYukinaga Maxの雪村春樹への追悼。 

 

 

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連載『SM美容術入門』