Salon de SMでは、「催眠術を葬り去った悪人」扱いのフロイト先生(『メスマー美容術入門05-催眠術終わる』参照)ですが、精神医学の世界では、言わずと知れた超エライ先生です。
フロイト大先生は、「無意識の発見者」なんて紹介されたりすることが多いですが、これは言い過ぎでしょう。
『メスマー美容術入門02-広がる怪世界』で出てきたイギリスのジェー ムズ・ブレイドなんか、フロイトより何世代も前の人ですが、ちゃんと「人には別の意識があるみたい」って言ってます。
まあ、だいたい催眠術をやってた、18世紀以降のメスマーに続く怪しい人達は、普段の意識ではないもう1つの意識があるみたいだってのは分かっており、何らかの形で無意識の存在に相当することを述べていたのではないでしょうか。フロイトが最初ではありません。
そもそも「無意識を発見」って、どうやて発見したんでしょうか?顕微鏡か何かで見つけたの?脳を解剖したら、無意識が出てきたのでしょうか?
あるいは、何か脳波かレントゲンかで、無意識が見えるのでしょうか?
そうじゃないですよね。無意識なんて、ようするに仮定の存在。
あると仮定すると、いろいろ合点がいくので、都合良いといった程度の存在です。
「意識(顕在意識)は氷山の一角で、その裏には巨大な無意識(潜在意識)が隠れており、無意識の方が圧倒的に大きいのです」
なんて説明がよくありますが、誰がどうやって、無意識と意識の大きさを測定したんでしょう?
しかも、無意識はさらに、「前意識」や「個人的無意識」「集合的無意識」「超意識」「イド」「エス」などなどと、いろいろな人が、好き勝手な定義をしてサブグルーピングしています。
どれが本当で正しいのか、どれがインチキでウソなのか分からなくなりますね。
いろいろ説が分かれれば分かれるほど、その分野は怪しくなります。
このような背景のもと、「そんな実験的に定義のできない、定量化もできないもの(=無意識)を、あたかもあるかのように言っていると、いつまでたっても心理学はサイエンスになれないぞ」、って雰囲気が20世紀の心理学の主流となります。
無意識があるかとかないとかは考えないで、実験的に定量化できる観察だけで、サイエンスを構築してこうという態度です。サイエンスとしては正しい姿勢です。
パブロフの犬で有名なイワン・パブロフ(20世紀初頭にノーベル賞をもらっています)あたりから始まり、20世紀のアメリカの心理学のジョン・ワトソンあたりで成熟期に達します。
『メスマー美容術入門06-カリスマ登場』の主役のミルトン・エリクソンの、学生時代の先生であったクラーク・L・ハルって心理学者も、基本的にはこういった、客観的に定量化しやすい観察を重要視する学者です。その生徒のミルトン・エリクソンは、結局正反対の方向に進むのですけどね。
パブロフと犬
なので、心理学の主流派からは、「怪しい奴らやな〜」と冷ややかに見られる「こころ」の問題を扱う人達なのですが、こちらはこちらで
「私たちのやっておりますのでは、臨床でございまして、クライエントが治ってナンボの世界なんですワ。高邁な理論を振りかざす前に、一人でもクライエントを助けてみいや」
という考えもあるわけですし、精神科のお医者さんなんかは
「あ、私は精神科医ですので、心理療法家みたいな、医者でない人と一緒にしないでください。」
なんてこともあり、とてもややこしくなります。
まあ、それはまた別の機会に整理することにして、フロイト大先生と無意識の話しに戻りましょう。
フロイトのエライところは、無意識を発見したわけでなくて、「ヒステリーなどのこころの問題が、意識ではなく、無意識の部分での何らかのトラブルが、体の症状となって現れる、という仮説をたて、その無意識の部分でのトラブルを意識化することで、治療できるんです」ってヒステリーの病因を無意識に求めたことにあります。
ようするに、例えば、ヒステリー症状で困っているクライエントとの面談から、意識に上っていなかった(つまり忘れていた)幼少期のココロの傷(フロイトはやたらと、幼少期の性的なココロの傷を導き出すのが好きな人でした)を探り出し、それと真正面から向き合う(意識化する)ことで、体の問題が治る、って感じのヒステリーの発生機構とその治療法を考え出したのです。
フロイトの解釈が正しいかどうかはおいておき、フロイトが体系化した精神分析という治療法は、確かに多くのこころの病をかかえた患者を治すことになり、フロイト流の精神分析ブームが、アメリカなどで20世紀の前半〜中頃に起こることになります。「デキル兄ちゃん姉ちゃんは、月に一度は精神分析医に通っている」っていった生活スタイルです。
さてさて、本題に。
フロイトにとっては、無意識はいろいろトラブルの原因を含むやっかいな存在でした。
理性や知性の支配が及びにくい、原始的で低脳な存在といった感じなのでしょうか。
人間の理性の力で、無意識を制御することこそが、人間の成長につながると考えていたのではないでしょうか?
フロイトに続くこころの研究者は、フロイトのように無意識をやっかい扱いはしていません。
むしろ、積極的に無意識にポジティヴな価値を与えている人が多いかもしれません。
フロイトと喧嘩別れしたユングなんかその代表格で、無意識からいろいろなことを学ぼう、って感じで無意識の存在をとても大切にします。
ユング派を日本に導入した河合隼雄なんかも、夢や神話・童話などの無意識の関わる領域をとても大切にします。
サロンさんが感じる限りは、無意識を最も大切にしたのは、しばしば登場するミルトン・エリクソンです。
ミルトン・エリクソンは、上で述べた「治ってナンボ」のタイプの人、それも、その姿勢を徹底した人でして「理論」というのを出すのを嫌っていました。
頭が悪くて理論化しなかったのではなく、理論化した途端に、それは真実から離れてしまうと考えていました。「知る」ということはどういうことなのといった、大きな問題なので、こちらも別の機会に整理しましょう。
人間は一人一人異なる。一人一人異なる人間に、画一的な理論で心理療法をすることなんでできるわけがない、というのがミルトン・エリクソンのスタンスです。
さらにミルトン・エリクソンの興味深い点は、「意識は嘘つき、無意識はウソをつかない」って感じで、無意識を非常に大切にしています。
フロイトと正反対なんです。
フロイトはあくまで、意識中心で、無意識がいろいろ、意識に困ったことをしでかしてくれる、って感じで、問題は無意識にあるとします。
エリクソンがどのようにクライエントを治療していたかというと、基本的にクライエントと無意識レベルでコミュニケートするのです。
その時、意識があると、いろいろ邪魔するので、必要ならば催眠術を用いて、無意識レベルでのコネクトを確実にします。
エリクソンにとっては、意識は、嘘つきで、正直でなくて、やっかいな存在。直接、正直な無意識とお話しをして
「意識がなんか、いろいろややこしいこと言ってる見たいけど、全然大丈夫だから、あんた、がん張ってね!」と元気づけてあげればOKという治療戦略を採っていました。
もうお分かりでしょう?
これってSM美容術で説いている、SMプレイによる心のコネクションと同じですね。
責め手と受け手が、互いにトランス状態に入って、情報空間を共有し、コネクトした状態というのは、不正直で、囚われに満ちた意識を脱ぎ捨てて、正直でポジティブなもう一人のあたなと私がコミュニケーションする状態です。
三大縄神様の一人、雪村春樹が述べた『言葉はウソつくけど、気持ちはウソつかへん』(『SM美容術入門34-内包する支配力』参照)とうのも、「言葉=意識」「気持ち=無意識」と置き換えれば、同じ事を言っているのが分かりますね。
SMプレイを楽しむと、なんだか元気になった、スッキリした、体調がよくなったってのは、こういうところが関係しているのかもしれません。
無意識を重要視したユング。無意識の深いところには、集合的意識があるとして、ある意味、一線を越えた境地まで行ってしまった人でもあります。
エリクソン自身は理論をほとんど残さなかった(意識的に)ために、お弟子さん達がいろいろな流派として体系化・理論化しています。
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